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「オペラアリアと第九」を聴きに行く [北窓だより]

恒例になった東京コール・フリーデ(合唱団)の公演(東京文化会館)を聴きに行くことで、今年の締めくくりとします。前日の大雨が上がって、異常なほどの温かさになった昨日のことです。
オーケストラは東京シティ・フイルハーモニック管弦楽団、指揮は現田茂夫、ソリストは省略させてもらいます。
この一年、モーツアルトにかなり浸っていたので、毎年のことである第九が新鮮に聞こえました。ベートーベンはモーツアルトを師と仰ぎ崇拝していましたが、生み出されたものは違っているのだなあーと。
天上の音楽という感じでありながら、実はとても人間的で、人生の喜びを、愛を歌ったものだということが、ずっと聴いていて分ったのですが、ベートーベンの場合は、同じ人間的であっても、もっと地べたを這い回るような、生々しいものがあるような気がしました。当然35歳で亡くなった夭折の天才(奇跡ともいうべき神童)と病や人生の苦悩を味わった努力の秀才(型の人間)とのちがいみたいなものもあるでしょうし、また時代の違いもありますが・・・。もちろんモーツアルトの短い生涯にも多くの苦しみや悲しみが十分にありましたが、その表れかたが違っているようなのです。
ですから聴く方もベートーベンが聞けないときと、モーツアルトが心に響かない時があるのだろうなーと。
詩もそうなのでしょうか? そうある筈なのですが、言葉は音楽のようには心に直接ひびかず、またそれが難しいのですね、残念ながら。

年も押し詰まり、何もしない私ですら雑用に追われている日々です。
やっとこれを書き、今年の納めといたします。
では皆様、良いお年を! 
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『たそかれ』朽木祥 (福音館書店)を読む [北窓だより]

昨年10月26日のブログに、朽木さんの第一作『かはたれ』を読んだ感想を入れたのですが、これは今年出た第2作目になります。最初の本で、日本児童文学者協会新人賞・同文芸新人賞など3つも賞を重ねてもらう幸運にも恵まれ、大いに期待される作家となられました。
この題も「かわたれ」と同義の「たそかれ」です。舞台は同じ場所、またその時刻からも推量できるようにあの世とこの世、人間界と異界が重なり合う世界で、ここにも散在ガ池の子どもの河童「八寸」が先ず登場しますが、前作より4年後という設定になっています。その世界は前作と同様仄かな感じを漂わせながら重層的で詩的雰囲気に満ちていますが、もっと深まり、また例えて言えば個の存在から社会や類の存在まで思索が深まっている感じがしました。
こう書けばとても難しく固い話のようですが決してそうではなく、旧いプールのある(それが取り壊されそうになっている)高校での河童騒動を部活舞台としたミステリー物語として読んでも面白く、前作に八寸と仲良くなったニンゲンの少女・麻との再会、新しく登場してきた、小学校時代のいじめを克服して今では音楽家を目指している河井君との出会いと友情、部活のモデルになる前作にも登場したラプラドール犬のチェスタトンの活躍などの学園物語的な要素もあるのです。
しかしもっとも重要な登場者は、八寸が長老から探す事を命じられた同じ河童の「不知」と、かれが出会ったニンゲンの「司少年」です。そこで時間は急に60年遡る事になります。不知は司少年との約束を守って、60年も待ち続けているらしく、その河童を連れ戻すことを八寸は命じられたのです。不知が棲んでいるのが、高校の取り壊されようとしている旧いプールなのです。
果たしてその不知を八寸は探し出し、無事に連れ戻す事が出来るでしょうか。どんな風に麻や河井君の力も借りながらそれを果たすのでしょうか、それがこの物語の大きな筋です。

しかしこれが作者の本命ではありません。その筋立てを使って、もっともっと深くて大きなことを伝えたいのです、と断言めいた事を言いましたが、私はそう読みました。60年前の(現在点から言えば64年前)のことですから司少年は戦争に行っています。戦死したと思われていたのに、片腕は失いながら帰ってきます。その後空襲がひどくなり、爆撃に追われて多くの人がこのプールに火を避けて飛び込み亡くなったという記録が残っています。(戦災を受けた都市にはこういう場所が多くあるでしょう。東京大空集の時は隅田川というふうに)司少年も崩れてきた大きな梁に挟まれて動けなくなり、友達になっていた河童の不知もやむを得ずかれを置いてにげるしかありませんでした。そのとき司少年が言った言葉を守って、彼がきっと会いにくる事を信じて待ち続けたということが分ります。こういう不知をどのように説得して連れ戻すのか、また司少年は本当に約束を果たしたたのであろうか。それは読んでいただくしかありませんが、そういう戦争で喪われた魂へのレクイエムが潜ませてあります。まさに潜ませてあり、あからさまには語られません。ちょうど音楽のように、言葉ではなく感覚で語ろうとしているみたいです。実際このお話の中にはたくさん音楽が出てきますし、音楽が奏でられます。
また、時間も場所も重層するわけですが、それが巧みにファンタジックに映像的に描かれている点も感心しました。

この本は童話シリーズで小学校中級以上が対象と分類されていますが、その枠を超えるものです。前述したようにそういう児童生徒も十分に楽しめますが、深いところまでは感受できないでしょう。しかしモーツアルトが子どもに楽しめない事がないと同じです。多くのすぐれたファンタジーが年齢を超えて楽しめるように、これもそれ類した物語だと思いました。参考まで付け加えると作者は広島出身です。

音楽や絵や物語について、心に残った文がありますので、次に書いて見ましょう。

<人の心が悲しみや苦しみでいっぱいになってしまうと、音楽や絵や物語のいりこむ余地はなくなってしまう。だけど、心はそのまま凍ってしまうわけではない。人の心の深いところには、不思議な力があるからだ。何かの拍子に、悲しみや苦しみのひとつが席をはずすと、たとえば音楽は、いともたやすくその席にすべりこむ。そっとすべりこんできた感動は、心の中の居場所をひそかに広げて、まだ居座っている悲しみや苦しみを次第にどこかに収めてしまう>
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TV番組で「木村さんの林檎」を知る [北窓だより]

昨日TYで、日本で始めて無農薬、無肥料で美味しい林檎を育て上げた、この「木村さん」の話を見て驚嘆し感動した。
最近は農薬や殺虫剤の被害や影響が問題になって、農業もなるべくそれらを使わない自然農法をと変わってきているようだが、全く農薬を使わずまた肥料さえ使わずに、しかも素晴らしく美味しい林檎を育てるというのだから驚きである。
もちろんここに来るまでは苦難の道のりであって、追い詰められて自殺を考えたこともあったそうだが、8年かかってやっと立派な実を実らせた事が出来たのだという。

日本の農業で一番苦労するのは害虫である。「虫やらい」の昔からの行事があるように虫から農作物を守る事がどんなに必要で大切な事か。しかし害虫があればそれを食べてくれる益虫もあるわけで、木村さんの農園には雑草がいっぱい生えていて、自然のままに植物や昆虫が共存できるようになっているという(しかし決して放って置くのではなく、適当で必要な草刈もし手入れもする)。
それでも林檎の木や実に害を為すものがあるわけで、それをどうするのだろうと思っていると、それは植物から作った酢を丁寧に散布するのだそうだ。それも一本一本を、散布機でなく手に持ったホースで散布する。散布機を畑に入れると、草や土を痛めるからである。
ここに至って分ってくることは、その秘密は土、土壌にあったのである。肥料も全く必要ないというのも(素人考えでは有機肥料であれば少しぐらいやったほうがいいのでは・・・と思うのだが)、そこにあるようだ。
林檎の木下の土はふかふかで、そこには生えた土や落ちた木の葉やその他生き物たちの死骸などで十分に栄養があるのだろう。

林檎の木は「育てない、(木が育つのを)手助けするだけだ」というのが、木村さんの農法の基本なのだという。そして「こんなに立派に育ってくれて有難う!」と、林檎に頬ずりする木村さんの姿は美しい。
林檎は家族の一員であり子どもであり、その根本にあるのは「愛」である。
その林檎もまたそれを絞ったジュースも素晴らしく美味しく、今はそれを手に入れることは難しく、また業界でも「不可能を可能にした男」として見学に来る農家や研究者たちも多いという。もちろんホームページもある。
瑞々しく美味しいだけではなく、腐らないというのも不思議だ。日が経ってドライフルーツのようになったものがスタジオに出されていた。どうしてだろう、野性的な強さがあって腐敗菌が付かないのだろうか。
話の中で、ある転機とになった事柄が興味深かった。それは自殺も考えて岩木山の山奥に入って寝そべっていた時に一本の野生の林檎の木を見たのだという。肥料もやらず、農薬もかけない林檎の木がどうしてこんなに美しく花を咲かせているのだろう?と思ったのだと。
それが農法を進めるきっかけになったのだ・・・と。
知識は全て自分で調べ、体験を基にした独学である事もすごい。

これを聞いていて、私はふとニンゲンの子どももそうではないか・・・と。
今ニンゲンの子どもにも、肥料をやりすぎ、消毒薬をかけすぎ、手をかけすぎ育てすぎているのではないだろうか。
ニンゲンは林檎よりも素晴らしいはずではないか。そのニンゲンの子どもを「育てない、(子どもが自分で育つのを)手助けするだけ」にしなければ逞しく立派な人間に育っていかないのではないだろうか。そんな事より、その土壌を豊かなものにすれば良いのではないか。
政治家までがしゃしゃり出て、教育基本法にまで手をつけ、無理やりに愛国心のある人間に育て上げようとする行為は、これとは逆の方向に向っていると思わざるをえない。
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