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冷泉家の歴史と文化(つづき) [北窓だより]

冷泉家とは一体何なのだろうか。実は私はよく分かっていなかったのである。藤原俊成、定家から延々800年続いてきた「和歌の家」と言う程度の知識である。それゆえに和歌の勅撰集をはじめとする和歌集だけでなく「明月記」や「源氏物語」などの写本まで、重要文化財が8つの倉にどっさり納められていて、それをずっと守り続けてきた家系だというぐらいの判りかたであった。
冷泉という姓も、天皇の場合のように(朱雀帝、桐壺院など)その家の在り場所で呼ばれる例で、3兄弟の二条家、京極家に対して、末っ子の藤原為相邸は冷泉にあり、彼から一族は始まるからである。だから本当の姓は藤原であったが、近年になって藤原では同姓が多すぎるので、区別するために冷泉を名乗るようになったのだという。
さて冷泉家というのは何か。言って見れば、和歌の「家元」という事である。日本の文芸・芸能の多くは家元制をとることが多い。お茶やお花から、能や歌舞伎やその他、一子相伝の家元によってその芸は受け継がれてきている。そんな家元である。

現代詩はそういう日本の和歌的抒情から先ず抜けだそうとしるところから始まった。もちろん短歌や俳句を書いていた人が詩を書き始めたり、また反対に詩人が短歌や俳句を取り入れたりすることがあったりするが、初期はむしろそれらに傾こうとする事を潔しとしなかったのではないだろうか。今でもpoemとして根っこは同じであっても決して
それらに手を染めない人もいるし、私もちょっとだけ短歌や俳句を作ってみたりしたが、それぞれにおくが深いわけであるし、そちらには行かなかった。
現代詩はそういう伝統から見ると異端児的である。しかし冷泉貴実子さんの言うように七五調というリズムは、遺伝子の記憶として自分の中にある。もちろん伝統が全て良しというわけではなく、たとえば花柳幻舟さんのようにと例を挙げ、家元批判の気持も分かるけれど自分たちはただ祖先の遺産を守り続けてきたと話された。
芭蕉のいう不易流行なのだろうが、現代詩に関わってきたものとしては、その伝統の素晴らしさ、力に感嘆しつつもちょっと複雑な気持にもなるのだった。
これら家宝の数々については、新聞にも宣伝され、東京都美術館で展覧される事になっているからここには書かないが、面白いと思ったことを少し。

大体において、日本では祭政一致は平安朝以降は無くなり、実権は武士が握り、また明治以降は、政治の中心まで東京に移り、貴族は公家ということになったが、政治に携わることをしなくなった彼らは一体何をしていたかということである。
一体何をしていたのか?
それは年中行事を行っていたのだという。すなわち新春のための準備(掃除、餅つき、飾りつけ)からお正月の行事、その後節分、お花見、端午の節句や七夕、お月見などなど四季折々の行事を、昔行われていた通りに今も踏襲しているのである。明治以後、東京に逝ってしまう公家たちも多い中で、冷泉家だけは昔のままの750坪の古い屋敷に昔のままの年中行事を延々と800年間続けてきたのだという。まさにここには「源氏物語」の世界がそのまま残っているのである。
「源氏」を読んでいると、ここには政治のことは出ていないので、貴族たちはいわゆる年中行事を行いながら管弦の遊び、詩歌の作成や朗誦に明け暮れている場面ばかりであるが、まさにその世界を今日まで守り、引き続いているという事を知って驚嘆した。
それが一体何の役に立つか、また何故そうするのか、分からないが、しかしそれが文化というものではないだろうか。それが大切な事だと先祖から言われているので、それをただ自分たちはやっているだけだとも。
しかし8百年間、当代で25代にわたる期間守り続ける事はやはり大変だったようだ。日本本土の爆撃にも、京都であったことから免れたが、その後の経済バブル期を切り抜けることは大変だったようで、そして今日は相続税の問題など、やっと新聞による発掘で学術調査が入り財団法人になったことで、これらが守られたのである。
そういえば、今の天皇家の仕事も公務のほかに、宮中のさまざまな行事も大切な仕事のようで、冷泉家と同じようなものだなと、思い至ったのであった。

もう一つ、この冷泉家の存続に大きな役割をしたのが、あの「十六夜日記」を書いた阿仏尼であるということを知った。はじめに書いたように3兄弟の末っ子の為相が一代目になるが、その母親がその阿仏尼。彼女は女でありながら息子の相続問題で訴訟を起こしはるばる鎌倉幕府に訴えにきた、しっかりした文学的な才もある人で、それが認められて家の復興が遂げられたのである。上の二人は、父親からは目にかけられていたのにもかかわらず、政争に巻き込まれて家は断絶。まさに祖父に当たる定家の有名な言葉「紅旗征戎わがことにあらず」が、この家を守ったのである。
これは「源氏物語」が世界に誇れる文学作品であるように、倉の宝物と同時に、家という生きた文化財もやはり世界に誇るものであろう。ただその家に生まれた人は宿命だとはいえやはり大変だろうなあと思った。
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台峯歩き・稲田と青鷺 [台峯を歩く]

このところ気持の良い秋日和が続きます。
昨日は台峯歩きでしたので出かけてきました。田んぼには黄金色の稲が実っている頃なので楽しみです。何日か前、電線に止まって声をあげるモズの姿を見かけ、秋が心の底にすっと入ってくる気がしました。
集まったのは15、6人、初めての人も半数ほどです。今日はイネ科の植物を中心に見て歩きましょう、とKさんがいつものようにカラー写真のプリントを渡してくれます。多くはKさんが最近、この辺りを歩いて実際撮ったものです。写真には撮りにくいものだといいます。それに駐車場とか道路とか、変哲もないところに生えているものですから見かけた人から咎められたり変に思われたりするそうです。きれいな花などは咲かせない雑草ですから。しかしいわゆる雑草ではないというのです。
外国でもハーブなどの、いわゆる野の花、雑草というのには分類されていないとのこと、すなわちれっきとしたイネ科の植物なのです。稲はその典型的なものだと言えるでしょう。
そのことからも判るように、イネ科の植物は、人間と深い関係があるのだそうです。人が畑を作ると、必ず生えてくるのがイネ科植物であり、いなくなると生えなくなり、深い山の中には無いそうで、人間に一番近い植物だとのことです。麦や稗、粟など五穀の多くがイネ科であり、わたしたちの生存には欠かせないもの。そう言われてみて、私も食料以外のイネ科の植物たちを、雑草の中でも強かに蔓延る厄介ものとばかり思っていたのに気づきました。スズメもまた他の鳥たちも、この穂を啄ばんで食料にするのです。またどんなイネ科のものが生えているかによって、その土地がどういう風に使われているか、そこの環境もわかるという。こう聞くとイネ科の者たちに親しみが湧いてきました。いわんやその名前が分かるとしたらいっそう・・・。
さて、それで資料を手に歩き出しました。観察したのは、代表的な雑草(もちろん他の雑草とは違うと知った上で)のオヒシバ、メヒシバ(3本ほどの線香花火のような穂を持ったどこにでもある、地面に広がるようにして生える。名前で分かるが前者は太く、後者は小さい)、これは誰でも知っている猫じゃらし(エノコログサ)、これもキンエノコロ、アキノエノコロなどある。煙突掃除のブラシのような強い穂を持つチカラシバ、カゼグサというのは、名前通り風にすぐ揺らぐような繊細な穂を持っている。チヂミザサ(葉っぱに縮み皺がある)、イヌビエ、ノガリヤス、サヤズカグサ、コブナグサなどいろいろ、これ以上足を踏み入れると何でもですが奥が深いので、入口のこの辺で終っておきます。

田んぼは、2箇所とも稲穂がそよいでいました。第一の、広い方は今稲刈りの最中らしく、半分ほどが刈り取られていました。その上をウスバキトンボが飛びかっています。
第二の田んぼも、少し日当たりが悪いので遅れていましたが、まもなく稲刈りのようです。でもここが何時まで持つかです。ぎりぎりまで宅地開発が迫っているからです。

実は、洞門山の問題も、まだ解決していません。開発業者もしぶとく、2区画だけは奥の方で住宅地に近い事もあって、こちらも妥協せざるをえないかと思っているようですが、後3区画、それはかなり切り崩さねばならない大きな工事になるようですが、その施工許可をシルバーウイーク前に、急遽取ったとか取らないとか、市長選挙も迫っているので、それからどうなるか、まだ未解決だという事です。

そのほか鳥としては、空を舞うノスリを見ることが出来ました。トビとどう違うか、それもKさんの解説と、3脚ごと抱えて持ち運んでくれる望遠鏡が無ければ私たちには分かりません。また谷戸の池では、青鷺を望遠鏡で、大きくありありと眺められ感動です。昔の人は鶴と間違えたというのも道理、ツルのように大きく、首をぐいと上げて、堂々としていました。

イネ科の植物だけではやはり彩が無くて淋しいのですが、いわゆる老人の畑では、紫色の小さな花を咲かせているヤマハッカ、またシオガマ、谷戸の湿地のツリフネソウ群落が目を楽しませてくれました。さて、先月のこの辺の松虫の声が、チンチロで終っていたということに対して、その後にまたここを訪れた時、確かにチンチロリンと鳴きましたという報告がありました。やはり虫も、鳴き始めよりだんだん上達していくのでしょう。
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公開講座「冷泉家の歴史と文化」 [北窓だより]

源氏物語の世界に浸っているこの折、このような特別講座が開催されるとのことを知り早速申し込んだ。
平安時代の和歌の家、俊成、定家を祖として綿々と続く(もちろん更にその祖は藤原道長である)王朝の和歌守の家系、文化を守り続けてきた家である冷泉家のことは、新聞などで報じられ、すでに名高いのだが、その実態はどういうものであるのか、西欧で言えば由緒ある古城を見学させてもらえるような感じで聴講した。
近年になってやっとその重要性が国にも認められて学術調査も始まり、財団法人となってからは、長い時代を経て守られてきた(倉が5つもあるとのことであった)歌書(8百年の伝統の中で集積されてきた勅撰集、私家集)や歌学書、古記録などを、将来の保存のため調査と平行して「冷泉家時雨亭叢書」全84巻を完成。その完結の記念として新聞社後援で行われたようである。私は和歌は詠まないが、日本の伝統的な詩歌としてそれをないがしろにはできないジャンルであり、その詩的情緒は私の中にも脈々として流れているものであり、詩を書き続けていくにつれ、また歳を重ねていくに従ってこの国の伝統の力をいっそう感じないではいられない。源氏を読み返そうとしたのもそのことがあり、しかもちょうどそういう今であったので、貴重な機会と期待して出かけた。
ここまで書いて、ちょっと緊急の用事ができたので続きは稿を改めます。
念のため冷泉は[れいぜい]と読みます。昨夜は横浜のヒルトンホテルに泊まったが、読めなくてちょっとスペルを書いてくださいと言われたと貴実子さんは笑っていらっしゃいました。ぎっくり腰になっていて、幸い着物の方が腰のサポートには良いようでと・・・この叢書の宣伝のためにも頑張って出ていらっしゃったようです。平安の面影を残したようなふっくらと、ゆったりした感じの、良いお声の方でした。
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『源氏物語』宇治十帖 大君と中君 [北窓だより]

薫が宇治の八宮の許に通いだしてから3年が経っている。目的は若くして出家心の強い薫が、仏典への造詣が深い宮に教えを乞うためだったのに、はからずも姫君姉妹の姿を直接見てしまったため、心が動かされてしまう。もちろん姫君たちの事は知らされていたし、間接的にはお互いのことを知っていたのだが、一気に薫の心が高まったのである。これが匂宮であれば、姫君たちがいるということだけで、積極的にアタックするところであろうが、これまでの薫はそうではなかった。このとき薫は20歳、匂宮は21歳、大君21歳、中君は20歳。

折りしも八宮は、近くの師と仰ぐ阿闍梨の寺に7日ほどこもっている最中で、薫はお忍びの単独で馬を使ってであった。さすがにこの時は接近する。そして、この時は、侍女たちによって慌てておろされた簾近くに寄って、消息の和歌を差し上げるのである。しかし姫君たちは容易には返事をしない。こういうとき気の利いた若い侍女でもいれば代わりに返歌をするであろうが、残念ながらやはり世離れした田舎住まいである。
(この返歌もまたそのタイミングも難しい事柄である。あくまでも姫君はつつましく上品でなければならない。それら機微をよく心得た女房、侍女たちを侍らせているかどうかによって、その姫君の格も上がる。そしてたとえ返歌をしたとしても、その文字の良し悪しや散らし書きをするデザインセンス、また紙の種類やその色など、全てひっくるめて評価の対象となる。すなわち単に容貌だけではなく、教養や美的・デザインセンスなどあらゆるものを兼ね備えていなければ、理想的な姫君とはなれない。洋の東西を問わず王朝文化、貴族文化というのは結局そういうものであろう。)
さて、思わぬ訪問を受けた姫たちはというと、宇治という都から離れた山里ではあるが、帝とつながる八宮の姫君たちはその片鱗を備えている。薫のような輝かしい身分の人から真面目に消息をされたら何とかしなければならない。といって対等に堂々と応えて恥を掻くということだってあるわけで、驚いて即答できないままに、大君は「何もわきまえない私どもの状態で、物知り顔でどんなことが申し上げられるでしょう」と、謙遜しながら奥へ退いていくのである。その姿は「よしあり、あてなる声して、引き入りながら、(声を)ほのかにきこゆべく」、すなわち、いかにも由緒ありげで、上品な声をしていて、しかも小さな消え入るような声であり、それがいっそう心を誘うようである。それでもなお薫は引き下がらず、あれこれ細々と話をして、何とか大君から返事をもらおうと思う。と言ってもかえって返事がしにくくなり、そこで老い人の女房にその応対を譲るのであるが、その人こそ薫の実の父親である柏木の乳母であった事がわかり、秘せられていた薫の出自も明かされ、しかもその臨終の様もわかり、遺言も聞かされ遺品も手渡されるという展開になる。すなわち運命の糸に導かれるように、薫はこの宇治と深い縁が出来てしまう。

胸底に鬱積した憂いの種の一つ、出自が判明した事で、いろいろまだ聞きたいことはあるが満足するが、大君の心の声を聞くことはできず、明け方になり、霧も晴れてきて迎えの車まで差し向けられたので、今度は八宮がいらっしゃる時に参りますといって帰って行く。やっとその時薫がしたため差し上げた歌に対して大君から返事がかえってくるのだった。
だがこの話を、つい匂宮に話してしまう。これまで秘し続けていた、隠れ里のような処にひっそりと棲んでいる姫君という夢のようなロマンに、匂が憧れていたということを知りながらである。まめであることで通っていた薫であるから、つい匂宮に自慢したくなったのであろうか。このことが、物語の大きな展開、そして悲劇へと突き進ませる事になるのである。
では、今日はここまで。
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『源氏物語』宇治十帖の月 [北窓だより]

月の明るさは照明の発達によって実感できなくなったが、それらを無くしてみると月の明るさに感嘆する。先日の台峯での体験はまさにそうで、懐中電灯の明かりしかない山中で、しかも向かいの山稜も麓に所々人家の灯火が見えるだけだったので、満月の明るさを全身に浴び、その色合いの神秘性を体感した。草むらの前方に薄の群れもあり、右上方には満月、そのずっと下にはなだらかな山並みといった情景は、懐かしい谷内六郎の絵のよう、まさに絵のような風景の中で、時代をしばし忘れた。人の顔もそこでははっきり見えるが、しかし昼間とは少し違っているのかもしれないとも思えるのだった。

源氏物語では、当然ながら月は舞台装置にはなくてはならぬものである。雨もまた道具立てとしてよく使われるが、月は何と言っても筆頭だろう。宇治十帖は、薫が道心追究のために山深い宇治の地に源氏の異母兄弟であるが不遇で落ちぶれている八宮を尋ねて、そこで宮が大切に育んでいる二人の姫君を垣間見る事から始まるが、そこでも月が大切な役割を持っている。
時はやはり秋の末、有明の月の頃である。すなわちちょうどこれからの時期ということになる。有明とは、朝になってもまだ月が空に残っている状態の頃なので、だんだん月の出が遅くなり、従って月が朝まで残る事になる。
八宮は近くの師とする僧都の所で修行に励んでいて留守、そこで薫は二人の姫君が奏でる琵琶と琴の音を耳にする。姉妹は警戒心も無く簾を巻き上げて月を眺めながら演奏している。(もちろん警護の者にしっかり守られている筈なのである)
もう馴染みになっていた薫は(宮の許を訪ねるようになって3年が経っている)、宿直の者に頼んで家の中に入れてもらっている。そこで月明かりで二人の姿をみて、たちまち道心は何処へやら恋に落ちるのである。

「源氏」は、演劇的だともいわれるが、むしろ映像的ではないかとも思う。物語絵巻があることからも分るように、場面場面は一幅の絵になっているが、この満月を少し過ぎた月の明るい夜、演奏する二人の姫君の姿があたかも眼に浮かぶような、しかも単にその周りの光景だけでなく姫君一人一人の容姿から立ち振舞い、またそれによって推理される性格や気質まで、詳細でいて簡潔に描写されているのには驚くほかない。まさに映像的であり、また演劇的でもある。
先ず濡縁に寒そうに細っそりした女童が一人、また同じような格好の大人の侍女が一人などがいて、ちょっと奥の方に柱に少し隠れるように坐って、琵琶を前に置いて撥をてまさぐりしている時(これが妹の中君である)、ちょうどその時、流れてきた雲に隠れていた月が「にはかに、いと、明るくさし出でたれば」、中君は、ー扇ではなくて、これ(撥)でも月は招くことができたようですよ!ーと声をあげながら月を仰ぐように顔をさしだすのです。ここで月の光で露わになった中君の顔を、「いみじく、らうたげに、匂ひやかなるべし」と描写する。それに対して、そひ伏したる(ものに寄りそうようにしている)していた大君はこれまで演奏していた琴の上に身を乗り出すようにして傾きかかり、笑いながらこう言うのです。入日を返す撥というのはありますが、月を呼び返すというのは、思ってもいませんでした、面白いこと、などといって笑いあうのです。その大君のけはいは、「いま少しおもりかに(重々しい)、よしづきたり(由緒がある、奥ゆかしい)」と、薫は眺めながら判断する。またこの会話から扇で入日を招くという漢詩のようなものがあるようで、姫君の教養の程も察しられるのである。
このように月明かりは、スポットライトとして、物語の中で重要な効果をあげ、男の恋心を煽る。薫はこの垣間見によって姉の大君に魅かれるのである。
では、この大君・中君と薫についてはこの次に。
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お月見をしながら虫の声を… [台峯を歩く]

このところ台風も接近して秋の長雨のような日々、でも幸運にも昨日一日だけポッカリと晴れになりました。実は満月の日にもう一度松虫を聞こうと企てられていたからです。実は満月は4日なので、日曜日は一日遅れの十六夜です。
その日、朝はまだ多かった雲もだんだん去っていって、夕方になるとすっかり晴れてきて、6時集合、見晴台である老人の畑(通称、今はもう畑ではなく、立ち木と草むらになっている)に来たときは、一片の雲もない空で、満月がくっきりと仰ぎ見られました。Kさんが持ってきた天体望遠鏡で月面を見せてもらいました。クレイターもはっきりと見え、ただ眺めるのとは違う、またTVなどで見るのとも違う面白さです。ゆっくりと老人の畑に向いますが、ほんとうに照明の全くない夜の野道は足もとが覚束ないものです。(懐中電灯を持ってきてよかった。)
ブッシュの向こうから人声らしきものが洩れてきて先客がいました。その三人はお饅頭と里芋を供えて、缶ビールで月見の宴を開いているところで、でもこちらのグループとも知り合いらしく、昼間はサシバの渡りを目撃したと喜んでいます。(供えていたお饅頭は私達にも配ってくれた。ありがたく頂く)

月を眺めながら耳を澄ませます。そして鳴き声を手がかりに草を分けながら懐中電灯で姿を探します。見つけるのはやはりKさんです。最初はなかなか見つからないと言っていたのですが、それはまだ虫と同調しないからで、暫くすると次々に見つけてくれます。すなわち虫の気持というか、その世界が感覚全体で感じられるようになると、どの辺にいるか判るということでしょう。その代わり今度は人間の世界に帰ってくるのにはやはり時間がかかると、Kさんが笑いながら言う。ですから月見の宴をしている人たちとは、話はしてもその後はただ草むらを虫を探して歩くばかり。虫の方が好きなのです。それで松虫の姿を3匹も見せてもらいました。始めのは細身、次はどうも卵を抱えているらしい太ったメス、そして最後は鳴こうとして羽を広げた姿でした。やはり鈴虫と同じように羽を立て振わせながらのようです。
その後十六夜の月は、ときどき雲をまとわせながらもくっきりとした姿をずっと見せてくれました。北斜面にあるわが家からは、残念ながら隣家の屋根に遮られて見ることが出来ません。そして松虫も、暗闇に入ると慣れるまで何も見えないように、最初は声の高いアオマツムシと分離して聞き分ける事ができないでいたのに、だんだん耳が慣れてくると聞けるようになったのも嬉しく、満足させられた夕べでした。
でも松虫の声は、チンチロリンではなく、チンチロまでしか鳴かないようで、皆もそう言っていたのですが、リンは細くて聞こえないのかな? 

そこでも小学唱歌の「虫の声」が話題に出ましたが、前のブログで触れていた長唄でもこの虫の声が歌われているということも知っている人がいて、声の聞きなしは唱歌の方が長唄から影響されたのではないかという事になりましたが。
その長唄の題は「四季の山姥」(十一代目杵屋六左衛門作曲)です。そこでは松虫、鈴虫、轡虫、馬追虫が出てきます。

正味2時間ほど鑑賞してから帰途につきました。
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『源氏物語』宇治十帖の浮舟 [北窓だより]

源氏を読んでいると、色々思うことが出てくる上に横道にも入っていくことになり、書きたいことも沢山でてきてなかなか終られない。そこで今日は、今考えている私の結論めいたものに、先ず一気に跳んで見ようと思います。

宇治十帖の女主人公の大君と中君の姉妹の姫君を巡る、薫と匂宮の恋の駆引きのお話は一先ず置いて、最初にも述べたように、この世界でも冠たる名著(王朝文化、絢爛豪華で芸術性の高い平安時代の文化のことごとくがここには詰っている)の中に流れる暗いものは何であろう? という事が解ってきたような気がする。もちろん私なりの意見である。
先ず一つは、底流に流れる「もののあはれ」、無常観。それは別に特別な事ではなく、時と共に全てのものは変化し、盛衰することで、当たり前の事だが、これは恋物語なのであるから、それは男女の心、その変化である。そして女が主体性を持てなかったこの時代、主としてそれは男たちの恋心の変化、しかもこの時代は制度的にも一夫多妻のようなものだから、女は男次第ということになる。その女を守る事ができるのが、後見、すなわち父親やそれに代わる男の、地位や権力や財産である。宇治に住む二人の姫君は高貴な血筋(父は八宮、すなわち帝につながる)であるが、地位も財産も乏しい情況に置かれている。そのような女たちはどうなっていくか、そこに紫式部の眼は注がれていく。これが宇治十帖である。
第二に、これは前にも述べたことだが、これが書かれた一条天皇の時代、大きく時代は変っていき、藤原一族、特に道長によって天皇と外戚関係を結んで政権を握っていく摂関政治、父系全盛が確立していく時代。このことによって、姫君たち女性は、ただただ男たちの意のままに生きるしかすべを無くしていくのである。
それをとうとうと流れる無常という時間の大河、そして政治による大きな潮流、それに翻弄されるしかない姫君たちの姿を、哀れに美しく、絢爛豪華に描いたのである。宇治は、宇治川が流れているその頃は都を離れた山里であり、最後に登場させた姫君は「浮舟」。宇治川に漂う小さな舟、「浮舟」というのも、象徴的な命名である。
薫と匂宮はその浮舟を巡ってまた争い、その果てに浮舟は宇治川に身を投げる。しかし横川の僧都に助けられてしまうのである。そして身分も事情も話さないまま、切なる願いによって出家を果たすのである。
浮舟に式部は自分自身を投影させたといわれてもいるが、浮舟によって思うところを語ろうとしたことは確かであろう。
式部が出仕したのは、1005年か6年、夫を亡くして4~5年、その間彼女を救ったのは物語り好きの友人たちだったらしく、その間に源氏物語の一部は書かれ、それが評判になって道長も彰子付きの女房へと召抱えたのであるようだ。いわゆる、のし上がっていく権力の中枢部を裏側から眺めていた。衰退していく一条天皇側の姿もやはり伝わってきたはずで、その皇后定子の哀れも見ていたであろう。それに仕えた清少納言の悪口を日記に書いているが、それはライバルであるからであり、互いに意識せざるを得ないのは当然である。生身の人間同士であれば嫉妬がありプライドもある、そんなことは大したことではない。それぞれの特質を活かして、女主人を精一杯助け励まし、そして素晴らしい作品を生み出したのである。
新鮮な感覚が勝負のエッセイを得意とした清少納言と違ってドキュメンタリー的な散文ということになれば、やはり権力の最中に紛れ込んでいた方が、物事も良く見えてくるであろう。
宇治十帖を、「光のない憂き世の物語」(赤羽龍夫)という意見、またこれを書き終えた式部は、為すべき事はなし終えたと、仏道に惹かれていた(今井源衛)という論もあるが、そのようにこの最後の辺りは暗いものが漂う。浮舟の出家後の心境は、まさに式部自身の心の描写、解説である。
書き終えてから暫くは彰子の下にいたが、最晩年は実家で静かに暮らしていたらしい。資料上、1019年まで確認できるという。結局表立った活躍は、13、4年ということになる。もう少し書き足りない部分を次に書くことにします。
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