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「東京コール・フリーデ定期演奏会」に行く [北窓だより]

昨日、友人の合唱団の演奏会があり今年も聴きに出かけた。会場は、渋谷区の文化総合センターのホール。演目は、G・フォーレ「レクイエム」とA・キンタナ「 Mass From Two World」その他である。
いずれも被災された地域の人々への見舞いと早い復興の祈りを込めて、練習し捧げられたものであった。
フォーレの「レクイエム」は、よく知られているように「怒りの日」がない。フォーレはこれまでのとは違う新しいミサ曲を作りたい気持ちがあって、「死は喜ばしい解放」とのメッセージを込めたかったということですが、全体的に静かで美しいハーモニーに貫かれている感じがした。それもその音色が流れのように微妙な変化していくようです。解説によると、かれの音楽の特徴は、半音階的な和声と揺らぎと施法性という(知識のない私にはさっぱりわかりませんが)、とにかく和声の揺らぎの快さを感じたことは事実でした。最初は不評だったとのことですが、今聴くと悲しみを乗り越えた平穏な心境、哀悼の気持ちの漂った曲に感じられる。
キンタナのミサ曲の2つの世界というのは、ミサ曲の様式が固まり進化していった時代と現代の南米のリズムとシンセサイザーの迫力を持ち込んだ現代を指しているとのこと、葬儀の曲とは思えないほどの色彩にとんだ、活き活きした感じがありました。
それぞれプロの歌手によるソロも、音量豊かで聴きごたえがあった。
最後は、元気づけられるような日本の有名なポップス(指揮の伊佐治邦治・編曲)でした。

でも久しぶりに都心に出ると、その変わり方に驚かされます。そしていかに自分がお上りさんであるかを気づかされます。日々変化するエネルギーの坩堝ということでしょうか。それが面白いという人もあるでしょうが、疲れます。では。
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寒中の「台峯歩き」 [台峯を歩く]

この台峯を歩く会は、今日で151回目を歩みだします。自然を守る基本は、そこにどういう植物が生きているかということだということ、そこから自然の営みが見えてくるのだというのです。その姿を見続けるために毎月歩き、手入れをしていくのです。

さてこのところカラカラ天気の寒い日が続きます。
2、3日前が底の日で、その日はこの家でも氷が張りましたが、今日は張ってはいないものの寒さが累積した感じで、集まった人たちも口々に寒いと言い合います
それでも参加者は、16,7人、新しい人も2,3人いました。しかし目にする花はロウバイぐらいなので、今日は冬樹の幹の識別を専らに、ということになります。

これが大変難しい。例年やっているのに少しも覚えられず、また若木や老木によっても変わってくるのですから…。幹だけではなく、枝振りや枝の付き方(伸び方)がそれぞれ特徴があり、観察すれば識別できるのですが…。
これがなんの役に立つか…と言われれば、とKさんが笑いながら言います。何の役にも立ちません、単なるオタク的な楽しみにすぎませんが…と。でもそういう種類のそんな樹がそこに在ると、確かに認識することで、その樹と親しくなることなのでしょう。
暮らしの中で里山と深い関係であった昔の人は、そういう識別は普通の事だったに違いありません。
薪にするクヌギ、コナラは、ここにも多いのですが、ヤマグワ、カラスザンショウ、ムクノキは後に増えてきたものたちです。これらは生長が早く、昔だったらまた里山の所有者であればなるべく伐採したい樹だが、鳥には好まれる樹なので(その実を食べに寄ってくる)個人的には好意を持っているとKさん。

今日のもう一つのメインは、野鳥を見ることでした。
葉を落とした林の中では鳥の姿が捉えやすいからです。しかし今年は冬鳥が少ない、とのこと。
確かにこの家でも以前はうるさいほどやってきていたヒヨドリの声があまりしません。鳥の姿がめっきり少なくなりました。スズメも(今絶滅危惧種になってしまったようですが)来ません。

さて目撃した(ほんの瞬間の鳥の影も含め)鳥は、メジロ、ホオジロ、カワラヒワ、ヒヨドリ、トンビ、コゲラ、ルリビタキ、アオジなど。
この地に昔沢山いたのはホオジロで、スズメと同じくらいの数だったということです。
しかし今はその数を減らしている。それに対してコゲラは、今一番増えている鳥だそうです。
それはホオジロは草の実を食べていたからです。それら食料とする雑草が宅地開発によって無くなったからで、コゲラは立木があればよいからでしょう。
これらの事からも、植物が生き物たちの底辺を支えていることが分かってくるようです。
では今日はこれまで。
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T温泉行き 27年目 (今年で幕引きか?) [北窓だより]

明日はもう小寒、日本海側は大雪が続いているようです。
例年ながら雪深い中で過ごした日々から、雪のないカラカラ天気のこちらに帰ってくるとまさに夢の中にいた感じで、今年は特に大震災があったせいか感慨深いものがありました。
T温泉では、毎年2日に新年会も開かれており、常連客の多くが出ているようで(私たちも最初に誘われ1回だけは出てみましたがその後は止めました)これは50年も続いているそうですが、その参加者のカップルが、帰るとき私たちと同じ送迎車で「今年はお宅のメンバーの人数が少ないように見えますが…」などと声をかけてきて、互いに知らん顔をしていながら、ちゃんと見、見られているものだなあ…と感じたものです。

さて私たちメンバー、確かに今年は最小になりました。出発時は7名でしたが帰るときは4人になってしまいました。36畳敷きの広間に(これも昔は中広間という名称で、宴会は大広間のほうでしたが、時代が変わり大広間は幾つかの小部屋に仕切られ野草庵という食事処になりこちらだけが広間として残った)です。
そのようなこともあって、この辺が潮時かなと思いました。
毎年同じ温泉と宿での、暮れから正月にかけての3泊4日の27年間、そこには変遷があり一つの歴史が見られます。
行基上人が発見開湯されたと伝えられる国内有数のラジウム温泉で、宿は400年以上の歴史を持つ由緒のある湯治宿、そこにたまたま生前の相棒と訪れ、今度は正月を過ごそうと発案して6人のメンバーで申し込んだのですが部屋はもう満員でやりくりがつかず、とりあえず中広間に通されたのが話の始まりでした。
1983(昭和58)年の事です。

客室の設えはないものの広くゆったりしているうえに窓も大きい。その代り全員一緒で合宿のようなものだから、一人静かにというわけにはいかないが、広いので気心も知れた者たちなのでそれぞれ勝手に振る舞うことにし、また皆働き盛りで共に飲み食いしようと合宿気分で集まってきた同士でもあるので、誂えの部屋とも言えた。それで次の年から予約の取り合いの心配のないその中広間を最初から希望することにしたのだった。
それから27年、集まる者も年を重ね、宿や温泉の設備(クワハウスとか言って村のオンセンターのような建物ができたりして、またそれが失敗して少し前に戻ったり)、また交通手段も(新幹線時代の前は急行ー東京から上野まで出てーそこから急行で小出まで行き、その後もバスで温泉までたらたら行ってました。新幹線時代になっても私たちはしばらく抵抗して在来線を使ってましたが、だんだん接続が悪くなったのでとうとう新幹線利用、しかも浦佐からのバスが無くなったのでタクシーか宿の送迎を頼むしかなくなってしまったのでした。)変遷変化し、それは政治や社会現象とも連動して、ここにフォーカスされた形で一つの歴史が辿れるのを知りました。最初の頃は朝出て、向こうには夕方ごろ着いていたのに、今は新幹線で1時間半、そこから送迎車で30分ほど、まさに通勤並みになりました。

最初に出かけた6人のうち、発起した我々と親しかったカップルが中心で、私の相棒が亡くなった後、一人は早く去って行ったものの、残る4人が今日まで残るメンバーである。その後枝葉のように兄弟(姉妹)親戚、友達の友達…といった風に芋づる風に伸び縮みして、一番多いときは、20人にも膨れ上がっていた(記憶では13人ぐらいと思っていたがメモを確かめるとそうではなかった)。それは彼らがよく行くという渋谷のバーのマスターの家族や従業員まで同行という年であり、その時は店のワインを大量に持ち込み(持ち込みも許されていた)、私たちは大いに普段飲めない名のあるワインをご馳走になったものである。(彼らはそれを積んだ車でやってきた)。
そして最近は、幼児の頃に連れられてきた子どもが成長して、伴侶や子を連れてくるようにもなってきたが、これも例外的でやはりこの行事もこの辺が限度かなと、思っているところである。
私の相棒が病を得て退職し、亡くなった年までの2年間、私たち二人はこの旅に参加しませんでした。それでもこの行事自体は続いていたのである。しかしもう一組の主要メンバーの一人が今回は加わらないことになって、振り返ると私自身も正月を過ごすのにあまりにぴったりの環境、快適であるのを良しとして、疑似故郷への里帰り…という気分でやってきたもののやはり一種のマンネリ、縛りを自分にかけていたのではないかと思い始めたのです。
それで次回はどうするか、このまま続けるかこれでピリオドを打つか、予約の申し込みをする頃まで各自考えて貰うことを提案したのだった。

最初のうち、折角の機会だからと皆で連句の歌仙を巻いたことも思い出が深い。
詩を実際に書いているのは私だけだが、職業は色々ですが文系が多く読書家もいるので、歌仙の規則を書いたものを渡し、それを参考にしながらであるが、皆苦しみながらもそれなりに楽しんでいたようだ。これもメモによると1979(昭和54)年から1987(昭和62)年、また1997(平成9)から1999(平成11)の11年も続いたようだ。大抵は36首の歌仙だが、参加者10人の時は百韻も詠んでいるし、50韻も一巻ある。旅行中完成しないときには持ち帰り、それを郵便で回したこともある。まだやっとワープロ時代で、パソコン普及などはその後の事である。
いろいろ書けばきりがないのでこの辺で止めますが、やはり日本だけでなく世界もまた転換期になったこの年、私たちの上にもある転換が求められているような気がしたのでした。
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